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ドアに鍵をかけると、笹岡はアパートを出た。
『警察に、いうしかないよ』
八木の言葉が、耳の底で、小さくリフレインしている。
しばらく歩くと、警察署の玄関が見えてきた。屈強な体つきの刑事が、玄関の脇に立っている。体の前に、警棒を杖のように立て、それに両手をそえている。刑事の耳には、イアフォンがさしこまれていた。
数人の、制服姿の巡査が出入りした。
笹岡は、膝頭がふるえた。息が乱れた。体には、うっすらと汗をかいているようだ。 さらに、少し進んだ。
玄関に立った刑事が、一瞬、笹岡に視線を向けた。 笹岡は、耳鳴りが聞こえはじめた。体が、小さくふるえている。舌が、口の中ではりついていた。
かつて、警察で受けたさまざまな屈辱的な情景が、針のように笹岡を襲った――。 逮捕され、笹岡は、警察の尋問がなまなかでないことを思い知らされた。連日の取り調べは、苛酷をきわめた。
警察留置場――俗に代用監獄とよばれる房に入れられる。そこでは、正座もしくは安座していなければならない。壁に寄りかかったり、立って歩いたりすると、看守から怒声がとんだ。堅い床にただすわっているのはつらく、尻がただれ、かさぶたになった。
夜は、汚れてすえたような臭いのする毛布にくるまって雑魚寝をする。毛布に顔を埋めることは許されない。天井には蛍光灯がつき、テレビカメラと看守が、24時間監視している。笹岡は、不眠に苦しめられた。
房には便器があるが、下半身がかくれる程度のついたてがあるだけだ。排泄のあとは、『便水願います』と声をかけ、看守に水を流してもらう。
睡眠や食事、入浴の時間が、徹底的に奪われた。
態度が反抗的だといって、全裸にさせられたこともある。
『身体検査をする。服を全部脱ぐんだ』
と、刑事は命じた。
『何のためですか』
笹岡は抗議した。
『そういう規則だ。いいから、全部脱げ。パンツもだ』
刑事は、笹岡を全裸にすると、屈伸運動をさせた。ついで、犬のように四つんばいにさせられた。
『てめえ、汚いけつをしていやがるな』
かさぶただらけの尻をのぞきながら、刑事がいう。それから、体のどこにホクロがあるだとか、傷があるだとか、別の係官に報告をはじめる。
笹岡は、屈辱感で、頭の中がまっ白になった。こうした行為は、容疑者の反抗心を徹底して奪うことを目的にされているらしい。
いま――警察署を前にして、そうしたいまわしい記憶が、笹岡の中によみがえった。
笹岡は目がかすんだ。体のふるえが、どうにもとまらない。
彼は、あえぎながら、病人のような足取りで、ようやく警察署の前を通過した。背中に、刑事の視線を感じながら……。
公園のベンチにすわり、缶コーヒーをのどに流しこむと、どうにか人心地がついた。
「どうするか……」
と、つぶやいた。無性に、煙草が吸いたかった。
笹岡は、缶コーヒーを飲みほすと、立ち上がった。とにかく、八木に会って話をしてみよう。
笹岡の住まいから、八木のアパートまでは、300〜400メートルほどである。公園を出て、少し歩くと、すぐに八木のアパートに着いた。
ドアをノックする。
「はい」
中から、声がした。
ドアがあいて、八木の顔がのぞいた。パジャマ姿だった。
「はいって、いいかい」
「どうぞ……」
「寝ていたの?」
と、笹岡はきいた。カーテンが引かれ、部屋の中はうす暗かった。ベッドには、いままで寝ていたことを示すように、寝具が乱れていた。
「どうも、調子がおかしい……」
八木は息苦しそうに、いった。顔が赤い。上体がゆらゆらとゆらいでいた。呼吸のたびに、小鼻が動き、唇がチアノーゼを呈していた。
笹岡は眉をひそめると、
「寝ていた方がいい」
と、いった。
八木はうなずいた。苦しそうな表情だった。ベッドにもぐりこむと、目をとじる。
「薬は飲んだのか」
「ええ」
笹岡は、八木の額に手をあててみて、おどろいた。燃えるように熱い。
「笹岡さん、警察に行ってくださいね。ぼくは……ちょっと無理みたいだ」
「わかった。かならず行くよ。それより、ほんとうに風邪なのか」
肺炎かもしれない、と笹岡は思った。かつて、真沙美が肺炎にかかったことがある。その時の症状によく似ているのだ。
八木の姿に、ベッドに横たわった真沙美の姿が重なった。真沙美は、高熱にうなされ、唇や爪が紫色になっていた。その時、笹岡は、彼女を失うのではないかという恐怖を味わった。
「胸が……」
と、八木は、浅く、速い呼吸をしながらいった。
「痛いんです」
「とにかく、救急車を呼ぼう」
「救急車なんて、そんな……大げさ……」
八木がはげしく咳こんだ。
「大丈夫だ。まかせておけ」
笹岡は、受話器を取り上げると、救急車の出動を依頼した。
八木は入院することになった。診察にあたった医師は、笹岡に向かって、肺炎の疑いがある、と告げた。
笹岡は病院をあとにした。陽は、だいぶ傾いていた。
スーパーで、夕食用の総菜を買う。それから、文房具店を兼ねている書店で、コンパスと区の地図とを買った。
アパートにもどると、笹岡は地図をひろげた。距離をあらわす目盛りにコンパスを合わせる。アパートを中心点とした、半径200メートルの円を描いてみた。
それは、思ったよりもせまい地域だった。地図は12,000分の1の縮尺で、目盛りをはかると、200メートルは地図上で16〜17ミリにあたっていた。小さな円だ。その円の中に、笹岡の住むアパートがあり、幼稚園があり、寺があった。マンションも、いくつかある。日常生活の動きだけでも、この円の中だけでは収まりきらないだろう。
と同時に、それだけのせまい地域であるにもかかわらず、自分が通ったことのない道路が何本もあることに気がついた。アパートの近くを四メートル道路が走っており、その道路の北側の地域に、笹岡は足を踏み入れたことがなかった。
しかし、この程度の範囲といっても、電話の男女を特定するのは困難である。住宅もかなりあるし、マンションのような集合住宅の場合だと、その中には何10もの世帯がはいっている。しかも、電波を傍受した時には気づかなかったが、その円の中にいるのが、どちら側の人間なのかがわからない。
つまり、電話をかけた人間なのか、受けた人間なのかという問題である。仮に、女が円内に住んでいて、どこか別の地域にいる男に電話をかけたのだとする。その場合、男がどこに住んでいるかを特定することは、もはや不可能である。都内23区のどこにいてもふしぎはないし、あるいは、埼玉や神奈川といった近県かもしれない。
そんなことをしばらく考えているうちに、笹岡の心は重く沈んできた。
笹岡は、もう一度地図の目盛りに定規を合わせた。目盛りは、750メートルまでしかなかった。定規では、62ミリである。それを、2.7倍する。16.5センチ……それが、2キロの距離に相当した。
八木によると、高層マンションの最上階でコードレスホンの親機――つまり、電話機本体を窓際に置いて電話を使用した場合、電波は2キロも飛ぶことがあるという。
その範囲は、いったいどのくらいなのか。コンパスの脚を16.5センチにひらこうとして、笹岡は嘆息した。彼が買ってきたコンパスでは、長さが不足していた。
試みに、コンパスをいっぱいまでひらき、円を描いてみた。半径2キロの円は、さらにそれよりも一まわりほど大きい。およそ、区の4分の1ぐらいの面積が、その中にふくまれた。いったい、その円内に、どれだけの人間が住んでいるのか……。
「どうしようもない……」
言葉が、笹岡の口をついて出た。
それは、わらの山の中から、1本の針をさがし出すに等しい。八木が入院をしてしまったいま、笹岡が、たった一人でその捜索をするなど、とても不可能なことだった。
笹岡は飯を炊き、メンチカツと春雨サラダの包みをあけた。インスタントみそ汁にお湯を注いだ。
テレビをつけ、その画面を見ながら、黙々と食事をする。食事は、あっという間にすんだ。
かつては、真沙美を相手に、タクシーに乗りこんだおかしな客の話などをしながら、食事をしたものだ。真沙美が、笹岡の話に笑いころげる。
それを考えると、いまのわびしい生活が身にしみた。
『何で、おれみたいな男と結婚したんだ?』
と、笹岡はきいたことがある。
『わたしだって、いつまでホステスなんかしていられないし、あなたが望んでくれたから。それに、わたしがつき合った人の中で、あなたが一番誠実だったから……』
笹岡は、頭をふって、そのシーンを追いはらった。
「誠実か……」
唇の端がゆがむ。
詐欺商法に加担してから、笹岡の帰宅は連日深夜におよんだ。社長が檄を飛ばし、笹岡らは、死物狂いで客を勧誘した。客を何時間もカンヅメにして説得したり、銀座のクラブに接待したりした。一人つり上げるごとに、おもしろいほどに金になった。
高級マンションの一室で、真沙美はずっと孤独にたえていたのだろう。笹岡にもおごりが出て、真沙美を怒鳴りつけたりもした――。
メンチカツの包みと、春雨サラダの容器をポリ袋に押しこむ。台所で茶碗を洗った。
テレビは、ドラマに変わっていた。女が、カーペットに倒れこむところだった。手にしたグラスがころがり、カーペットにしみをつくる。睡眠薬か何かを飲まされたらしい。
笹岡はテレビの画面を見つめた。剃刀が映った。
男が、その体を抱え上げて、風呂場に運ぶ。眠らせた女の手首を切り、自殺を偽装しようというのか。
笹岡は不快になった。眉をひそめると、テレビのスイッチを切った。テレビの女が、四日後に被害者になろうとしている女の姿と重なった。その女も、やはり睡眠薬を飲まされて、風呂場に運ばれるのだろう。
笹岡はため息をついた。忘れることだ。おれは何も聞かなかった。どうしようもない……。
……続く
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