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5月6日、金曜日――。
飯塚自動車からアパートに帰りつくと、8時だった。腹がへっていた。
弁当屋で買ってきた幕の内を食べ、お茶を飲んだ。
食事を終えると、すぐにワッチを開始する。この数日の疲労が、澱のように胸にたまっていたが、ワッチをくり返す以外に、手だてはない。それは、笹岡と真沙美をつなぐ細い糸であった。
昼間、仕事をしている最中も、気が気ではなかった。いま、この瞬間にも電話がかかっているのではないか……そう思うと、気持があせった。つまらないミスを重ね、そのたびに、飯塚の目がにらんだ。
真沙美は、どこかこの近くにいる。だが、それはどこなのか――。考えてみれば、同じアパートに住んでいる住人のことさえ、よく知らない。数多くの人々が、このアパートの周辺に住み、笹岡とは無縁の生活を送っているのだ。
明日の土曜日……真沙美は殺される。何としても、それだけは防がなければならなかった。もし、真沙美が殺されるようなことになれば、おれは、生涯十字架を背負って生きつづけなければならないだろう。
笹岡は涙がにじんだ。涙は頬をつたい、畳に落ちた。真沙美と過ごした日々……それはかけがえのないものだった。彼女は、どこかで幸せな結婚をしてくれているのものだと思っていた。そう願っていた。それが……何ということだ。
男は、前の妻を事故で亡くしているという。どんな事故だったのか。はたして、ほんとうに事故だったのか。いずれにしても、真沙美は、保険金を得るための道具として、男に選ばれたのだ。
イアフォンからは、夜の街を飛び交う電波が、音声となって流れていた。
女子高生のたあいない話……帰るコール……男どうしの仕事の話……ヨガの教室に通っているらしい主婦の会話……。笹岡は、それらを次々とスキップした。
ルルル……ルルル……。
受信機が、電話の呼び出し音をとらえた。
「はい、佐藤です」
女の声。
笹岡は眉をひそめた。
「あっ、真沙美? ユウコです」
笹岡は体がふるえた。つかまえた! 真沙美の通話を、ついにとらえたのだ。
受信機をにぎりしめたまま、笹岡はアパートをとび出した。
アパートの前で、八木に教えられたように、くるりと一まわりした。音声が、波のようにゆれた。なつかしい声だった。笹岡が、もう二度と聞くことはないだろうと思っていた声だった。胸に、さまざまな感情がこみ上げた。真沙美の顔が浮かぶ。表情までが、手に取るようにわかった。
「ユウコ、どうしたのよ? 何度かかけたんだけれど、留守番電話になっていて……」
真沙美がいっていた。
笹岡は、受信機の感度が高まる方向に、速足になった。
「箱根に、旅行に行っていたのよ」
「そう……彼と?」
「ええ」
「どうだった、箱根は?」
笹岡はビルの角をまがった。ノイズがはいる。音声がかすれ、小さくなった。
ちがう。
「とにかく、人が多くて……」
笹岡は立ちどまり、受信機を胸に抱いて、そこでもう一度くるりとまわった。
その時、カシャカシャという音が、受信機にはいった。キャッチホンの音だ。
「あっ、ちょっと待って。電話がはいったみたい」
ユウコの声。
しばらく、無音の状態がつづいた。笹岡はその場に立ったまま、街路灯にうっすらと照らし出された夜の闇を見まわした。近い。どこだ――。心臓が、はげしく動悸を打っている。肌に、冷たい汗が浮いていた。
「ごめんなさい、真沙美。彼が、すぐ近くまで来ているんだって。また、電話するから」
切るな! 切るんじゃない。――笹岡は、無言の叫び声を上げた。
「そう……。じゃあ、彼によろしくね」
耳の奥に、ガチャと受話器を置く音が反響した。
笹岡はしばらく、身動きすることも、息をすることもできなかった。体が硬直し、挫折感が彼を浸した。
真沙美を飲みこんだ夜の闇を、笹岡は茫然と見つめていた。
笹岡は、疲れ切ってアパートにもどった。畳に横たわって、息を整える。ふたたび、ワッチする気力もなかった。今夜はもう、電話はないかもしれない。
ユウコという女を呪いたかった。
佐藤……そう、真沙美は名乗った。それが、彼女の姓だろう。佐藤真沙美……。名前がわかっただけでも、収穫にはちがいない。
これから、どうするか……笹岡は思考をめぐらせた。
「電話帳か」
つぶやきが、口をついて出る。
「電話帳だ」
笹岡は立ち上がった。彼は、気持が昂揚しているのを感じた。確実に、真沙美に一歩近づいたと思った。 アパートを出る。付近の公衆電話には、電話帳がそなえられていなかった。夜の道を、駅に向かって歩いた。
しばらく行くと、電話ボックスが見えた。ジーンズ姿の若い男が、ボックスの中で電話をかけている。髪の一部に、鮮やかな黄色のメッシュがはいっていた。電話機の下に設置された棚には、数冊の電話帳があった。
ボックスの前に立って、待った。
ガラス・ドア越しに、男の声がもれてくる。時々、けたたましい笑いを発した。女とでも話しているのか。甘ったるい声で、おもしろくもない話をしている。
そのうち、男は、シャツのポケットから煙草を取り出して、口にくわえた。ライターで火をつける。ボックス内に、もうもうと紫煙を吐き出す。
男は、外で笹岡が待っていることを知っているはずなのだ。
笹岡はドアをノックした。男はふり向きもしない。もう一度ノックする。男の顔がこちらを向き、笹岡をにらみつけた。
笹岡は頭を下げた。早くしてくれ、という言葉をこめたつもりだった。
男の顔がそれ、またけたたましい笑い声を上げた
ノックする。
男は、いきなり、片方の手でドアを押しあけた。怒りが、顔にあらわれていた。
「うるせえんだよ、おっさん!」
「頼む、早くしてくれ。いそいでいるんだ」
男は受話器に向かうと、
「どっかのおっさんが、ギャアギャアわめいてんだよ。――そうか。わかった。じゃあ、また電話するからよ」
男は、やっと受話器をフックにもどした。笹岡をにらみつけて、ボックスから出る。
突然、笹岡の脚にきつい蹴りがはいった。
「このやろう! 超むかつくぜ」
威すようにいうと、男は歩み去っていった。
笹岡はドアをあけた。煙草の臭いがこもっていた。
区の50音の電話帳をひらく。
佐藤……佐藤……。ページを繰った。
佐藤姓は、10ページ以上もあった。笹岡は、それらのページをまとめてつかむと、電話帳から破り取った。
アパートにいそいだ。男に蹴られた脚が、うずいた。
部屋にもどると、1時間近くかけてそれらをチェックした。
佐藤真沙美では、載っていない。載っているとすれば、亭主の名前だが、笹岡はそれを知らない。付近に住んでいる佐藤姓の人間をリストアップした。全部で、7名いた。
時計を見る。午後10時に近かった。
電話機を引き寄せた。
真沙美が出たら、何といおうか……。考えがまとまらぬまま、笹岡は受話器を取り上げた。
番号をプッシュする。
笹岡は、コール音を数えて、相手が出るのを待った。
「はい、佐藤です」
女の声だ。真沙美ではなかった。
「あ、あの……そちらに、真沙美さんいらっしゃいますか」
「どちらにおかけです?」
年配らしい女の声が、不機嫌になった。
「すいません。まちがえました」
笹岡は電話を切った。
ため息をつくと、ふたたび受話器を取った。
あと、1つ……。
最後の1つだった。電話帳には、「佐藤光浩」と記されている。
緊張した。笹岡は、ズボンで掌の汗をぬぐった。
番号ボタンを押した。
「はい」
と無愛想な男の声がいった。あの男ではなかった。
「あの……佐藤さんですか」
「そうですが。どちらさん?」
「ええ……真沙美さん、いらっしゃいますか」
「………」
男は、不審感を抱いたようだった。
「マサミは、いま新婚旅行に行ってますが。おたく、どちらさんです? 娘に、何か用ですか」
「いえ……」
笹岡は受話器を置いた。疲労感がきた。殺風景な部屋の中に、電話帳の紙切れが蝶の死骸のように散らばっていた。
真沙美は、転入してあまり間がないにちがいない。そのために、電話帳に記載されていないのだ。 いったい……どうやって、さがせばいいのだろう。やはり、警察にいうしかないのだろうか。アパートを中心とした半径200メートルの地域。その中に住む佐藤真沙美という女……これだけのデータがあれば、警察も何とかできるかもしれない。しかし……
笹岡は嘆息した。
もう、時間がない。受話器を取り上げた。番号ボタンを押す指がふるえた。
「はい、こちらは110番」
「………」
「もしもし。110番ですが、どうしました?」
「あ、いえ……」
のどに異物がからんだような声で、ようやくそれだけいった。目の前に、黒い霞がかかった。
笹岡は、たたきつけるようにして受話器を置いた。
電話が鳴った。笹岡は、ビクッと体を動かした。
「はい……」
「こちら、警視庁ですが。ほんとうに何もないんですね?」
「あ、はい……」
「いたずら電話をすると罰せられますので、注意してください」
「はい」
電話は切れた。体に、冷たい汗が流れていた。
……続く
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